就農して25年目になる私がこれまで有機農業一筋にやってこられたのは、素晴らしい先輩方に出会えたからだと強く感じています。有機農業ということばが当たり前に使われるようになった今では、あまり語られなくなった大事なことをたくさん教わってきたからです。今日はそのことについて、少し詳しく書こうと思います。
有機農業との出会い
30歳の終わりに当時勤めていた都内の看板製作施工会社を辞めた私は、三芳村に来る前の1年間、茨城県内原町(現在は水戸市に合併)にある日本農業実践学園研究科でひたすら実習をして過ごしました。この学園には当時有機農業という分野はなかったのですが、稲作、畑作、野菜、育苗など主な作業と機械の取り扱いは一通りやりました。お金は一切かからないけれど、収入もないという1年間でした。当時はまだインターネット環境もパソコンの性能も十分ではなく、また新規就農希望者は特殊な一部の人として扱われる時代だったので、就農先を探すための手段はとても限られていました。また、新規就農者へ資金貸付制度さえ始まっていませんでした。現在は認定されれば国から年間150万円もの給付が受けられるのですから、隔世の感があります。
私は、限られた情報の中でどうやって就農先を見つけようかと考えていましたが、そのときの研究科の先輩(と言っても私よりもずっと若い)からある冊子を見せていただきました。それが日本有機農業研究会発行の『全国有機農業者マップ』というもので、全国各地で有機農業に取り組む生産者の経営概要とこだわり・信条を、本人が紹介したものでした。その中で私が気になったのは、当時の三芳村の人たちがたくさん掲載されていたことです。
「三芳村」という地名は、東京で農業関係書を読み漁っていたころに、有機農業に関わるいろいろな本の中に出てきた地名でした。私はまず、当時三芳村生産グループの代表を務めておられた八代利之さんを訪ね、お話を伺いました。八代さんは、若いころ林業を主にしていた方で、炭焼き小屋も手作りされていました。八代さんはすでに亡くなられましたが、山のことや有機農業のことを語るときはいつもにこやかで楽しそうだったことが記憶に刻まれています。そんなお姿を見て、有機農業は楽しそうだなと、ワクワクしながらお話を聞いたものです。自分の仕事や生きざまに誇りを持てることは素晴らしいことだと、未来の自分を励ますような気持でした。
その後、自分の就農にかける思いを書いた手紙をお送りし、八代さんのお取り計らいで三芳村生産グループの会合の場でぜひ研修させていただきたいと会員の皆さんにお願いをし、お許しをいただいたのです。これが、私にとっての有機農業との出会いでした。その半年後には、研修生から生産者の一員として参加させていただくことになりました。これからは三芳村生産グループにとっても若い人が加わることが大切だと考えてくださった八代さんが代表でなかったならば、三芳村での暮らしはなかったかもしれません。その後もいろいろな場面で相談相手になってくださった恩人です。
露木裕喜夫氏の教え
三芳村生産グループは、東京から訪ねてきた消費者のグループからの無農薬野菜栽培の要請を受け話し合いを重ねた結果、1973年に三芳村の山名地区の農家18戸で始まりました。無農薬で野菜を育てようとすることが非常識だと考えられた時代に、慣行農法で暮らしてきた農家だけでこのような組織が発足できたのは、何といっても和田博之さんという素晴らしいリーダーがいらっしゃったからでした。和田さんは当時39歳だったということですが、地区の農家を訪ね歩いて勧誘と説得を進めて、三芳村生産グループ(発足時の名称は三芳村安全食糧生産グループ)の発足にこぎつけたのです。
発足当初からのメンバーの諸先輩方から何度もお名前を聞かされたのが、自然農法の指導者・露木裕喜夫氏でした。一緒に寝泊まりしながら指導を受けたということです。露木氏は静岡県の元農業改良普及所長という要職を務めていましたが、やがて農薬が生態系に及ぼす深刻な影響に気づき、職を辞して自然農法の研究と普及に努めることになった方です。私が三芳に来た頃には露木氏はすでに亡くなっていましたが、諸先輩方は「露木先生」と呼んで、教わったことについて何度も聞かされました。その中でも特に印象に残っているのは「ボタンの掛け違い」ということばです。それについて、和田さんが回想し書かれた文章から抜粋してみます。
「昭和47年、私たちは先生に出会うことができました。自然農法の大家と聞いていましたので、すぐに役立つ技術を教えてもらえるとばかり思っていたら大違い。先生は、まずは自然が行っている生命活動の基本となっていることを知らなければ始まらない。人間が思い込んでいる勘違いに気づくことが大前提、最初のボタンが掛け違っていては最後が合うはずがない。世の中八方塞がりが多いが、これは単に辻褄合わせで解決を図ろうとしているからで、原因の根本に立ち返って考えるのが筋道だ。人のあるべき姿や考え方の基本となる標準は、自然に従って生きることから見出すことができる。自然の仕組みは、人間が変えることのできない生命を育む絶対を持っている。人もこの環の中に存在する。指針を見失った世の中はやがてどうにもならない現実に追い込まれてしまうだろうし、個々人が自分を見失うことにもなりかねない。それぞれが生きる確たる基準となるものを見出すことは、社会にとっても大切であろう。と、常々話されていました。
そして、実際に生産するに当たっては、作物の態貌観察が大切、態貌はその作物の生命力と健康度を現すのでぜひその観眼を身に付けなさい。農薬や化学肥料を使わず、有機だから健康な作物だというような単純なものではない。自然界の生き物とのかかわり合いが生命源なので、その見極めができて初めて納得できるはず。私は、皆さんより少し先に自然というものを知ることができたのでお手伝いしているだけで、個人的な主義主張ではなく、天地自然の理です。これから自然農法を実践してゆく中で皆さんも気づいてゆくでしょう。道は遠いかもしれないが、成果をあせらず信念をもってゆっくりとやりましょう。と、人の道を説き、野に歩き、田畑に佇んで土や作物を手に自然の仕組みを話されるとき、聞く人々を包み込んでしまう不思議な力を感じたものです。
これまで経済優先を疑わずに、そのために見落としてきた大切なものに気づきました。私にとって見直しの人生が始まりました。三芳村生産グループが曲がりなりにもここまで来られたのも、支えとなる大きな柱が持てたからだと、露木先生との出会いに心から感謝し、自分の至らなさを反省しつつ、生きる証としての日々を過ごそうと思っています。」(1999年4月発行・安全な食べ物をつくって食べる会編『土に生きる第21号・25周年記念特集号』に掲載された和田博之さんの文章より抜粋しました。)
このように「ボタンの掛け違い」というのは、物事の根本が間違っていれば、いつまでたっても辻褄が合わず思うような結果を出すことができない、解決することができないということなのです。
有機農業=有機JASか?
私が就農しようとしていた当時は、まだ有機農業を選ぶ人は特殊な扱いで、千葉県の新規就農者のための窓口でも「有機農業はやめてください。B級品ですから」などと言われるくらいでした。しかしその後、90年代の終わりにオーガニックブームが始まり、日本でも 2001年に有機農産物認証制度(いわゆる有機JAS)が始まり、2006年には有機農業推進法が国会で成立したため、行政も有機農業を取り上げることとなり、例えば千葉県には安全農業推進課ができて国からのお達しで有機農業の普及のための研修会などに取り組み始めました。そして今は農水省も有機農業を施策の中に具体的に盛り込むような時代になってきました。有機農業が社会的にしっかり認知されたことはとても大きな意味があると思います。現在はアメリカや中国などをはじめとする世界各国でも有機農産物の生産は大きく伸びているということで、有機農業は時代が要請する農業のあり方なのは間違いないでしょう。有機農業を始めよう、転換していこうとする人が増えることは良いことです。
ただ、私はこのように商取引が活発になるにつれ、「有機農業」ということばが変質して、大事なことが置き去りにされているのではないかと気になっています。有機農業はビジネスチャンス、有機農産物は高付加価値商品で儲かる商材だというような認識がどんどん広まっているような気がしてならないのです。
最近は有機農業研修会と名付けられた場で、いきなり有機JAS制度の勉強をするような企画があちこちで見受けられます。しかし、有機JASという基準に合わせて栽培することが有機農業なのでしょうか?有機農業は50年も前から各地で始まっているのに、有機JASはほんの20年の歴史しかありません。有機農業とは何かを語るにもあまりにも一面的でしかありませんし、そもそもなぜ有機農業が大切なのかという問いかけすら感じられません。「決まりを守って栽培すれば、より高い価格で有利に出荷できますよ」というだけの指導では、やはり「ボタンの掛け違い」が起こるのではないでしょうか。日本で有機農業ということばが当たり前に使われるようになってきたのは、50年もかけて先達が試行錯誤し積み上げてきた歴史があるからだと思います。そこから学ぶことは、たくさんあると思うのです。
なぜ有機農業を選ぶのかということ
そもそもなぜ有機農業に取り組もうとしているのかということは、とても大切なことではないでしょうか。流行に乗ってお金を稼ぐためなのか、それとも生態系を壊さないためあるいは子どもたちの健やかな成長を助け人の健康を支えるような食べものを得るためなのか、という違いは大きいと思います。たとえば虫や病気の害を防ぐためにはどうしても必要になったら農薬を使うのか、それとも絶対に使わないと覚悟を決めるのかという態度の違いとして表れることになります。あるいは、農薬と化学肥料を使って大量に作る方がお金になるとなれば、有機農業はやめてしまおうと簡単に考えられることにもなるでしょう。売れる商品をつくるのが目的なのか、安心して食べられるものをつくるのが目的なのかということの違いは大きく、この根本が違えば、露木裕喜夫氏の言う「ボタンの掛け違い」となって、やがては辻褄が合わなくなるかもれません。
わが家の場合は、最初から農薬を使うことなど考えていなかったので、今でもどんな作物のどんな時にどの農薬を使うのかということを知らないのです。しかし、中には慣行農業から転換しようと考えている農家も少なくないことでしょう。その場合に、農業で生計を立ててゆくには収入を得なければならないけれども、そうだからと言って、虫食いだらけの野菜を届けることはさすがに気が引ける。だから「やはり農薬を使おう」となってしまっては、元も子もありません。そうならないため負担を、農家だけに強いるのは酷だと思います。
三芳村生産グループの場合も、最初は虫食いだらけの小松菜が消費者のもとへ大量に届いたそうですが、消費者の人たちがいろいろな工夫をしたりして受け取ったということです。消費者の人たちがこれでは食べられないなどといい顔をしなければ、最初からうまくいかなかったことでしょう。価格も農家の暮らしが成り立つような決め方をしたからこそ長くお付き合いが続いてきたのだと思います。「ボタンの掛け違い」というのは、農家も消費者も本当に求めたいことは何かということを十分に理解し、覚悟が決まらないときに起こるわけです。
消費者として有機農産物を買う立場の皆様も、有機JASマークだけを頼りに求めるのではなく、その農産物の生産者の姿や思いにも関心を持っていただきたいです。ちなみに、わが家は有機JAS認証制度を一切使っていません。それでも、わが家の生産物を大事にしてくださる方々はたくさんいらっしゃいます。とてもありがたいことです。このことについては、また改めてブログで書こうと思います。
大切なことを見失わないように
農家として有機農業で生計を立ててゆくには、技術も大事、経営も大事、どう売るかも大事なのは確かです。でも、有機農業を志すという方は、是非「ボタンの掛け違い」ということばに注意を払って、時々立ち止まり、なぜ有機農業なのかということを自問しながら歩んでほしいと思います。有機農業の奥深さ、有機農業で生きる楽しさは、ただ有機JASという決まりを守っているだけでは知ることができないと、私は思っています。
かつて私は和田さんからこう言われました。「信念をもって生きていれば、お金は後からついてくる」と。経験に裏打ちされた言葉の重みをずしっと感じました。そして今、確かにその通りだと思います。しかも、応援してくださる人もどんどん広がってゆくのです。
経験したことのないことを始めようとするときに、最初にどのような師匠に出会い、どのような指導を受けるのかということはとても大切なことだと実感しています。わが家が苦しい時もいろいろあったけれどもここまで迷わずに歩んでこられたのも、最初に素晴らしい方々に出会い教わることができたからだというのが、妻とも一致している実感です。ここにお名前を書かなかった師匠はまだ何人もいらっしゃいます。そのような方々が、働き盛りだった全盛期に教わることができたのですから、本当に幸運だったと思います。
*右の写真は、三芳村としての最後の年である2006年2月に三芳村を会場に開催された日本有機農業研究会全国大会の内容をまとめた記念誌です。表紙の生命力あふれるキャベツは和田博之さんの畑で撮影したものです。私は、大会実行委員会事務局として企画運営そしてこの記念誌の編集に携わりました。
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