今の政府は、言うこともやることも滅茶苦茶です。国会を無意味にするような強引な方法で、数多くの反対の声が上がっている法案を次々と成立させる一方で、税金や行政機関を自らの所有物であるかのように使っても平然とし、大臣や与党議員たちは権力者意識を隠そうともせず立場をわきまえない発言を批判されてもその座に居座り続けています。そんな政府が掲げるのが「強い農業」という方針で、そのためには規模拡大路線しかないと言わんばかりです。しかし、この方針を続けていくと、農家どころか日本に住む人みなの食料さえ危うくなってゆくだろうと私は思っています。そんな私が、この考え方はわかりやすくていいと思ったのが、東京新聞に掲載された哲学者・内山節(たかし)氏のコラムです。
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持続性のある国づくりを
「強い国家」ということばを用いるとき、「強い」とは何を意味している言葉なのだろうか。今の政権にとっては、強い経済力や強い軍事力を持つ国家が、強い国家なのだろう。それは明治時代の国家が追い求めた道であり、この点では今もなお日本は明治からの延長線上にある。
だがそれはそれが本当に強さの基準になるのだろうか。例えば戦前の日本をみれば、確かに日本は大きな経済力と軍事力を確立した。だがその帰結は、敗戦による国家の崩壊であり、壊滅的になった敗戦直後の社会であった。強い経済力と軍事力を追求した結果は、国家と社会の崩壊だったのである。とすると、それは「強い国家」ではなかったことになる。
(中略)持続的な友人関係にあることが強い友人であり、経済的な危機に直面しても維持できる家族が強い家族であるように、持続できることが強さなのである。(中略)強い社会、強い国家をつくろうとするなら、私たちは持続性のある社会、持続性のある国をつくらなければならないのである。
このような視点に立つなら、現在の日本は強い経済力や軍事力をつくろうとして、持続性を後退させてしまっているといった方がいい。企業は利益を追求して非正規雇用をふやしてきたが、こうして生まれた格差社会が持続的な社会なのだろうか。環太平洋連携協定(TPP)によって農村社会や医療制度などが大きく損傷してしまったら、社会は持続性を後退させてしまうだろう。原発が社会の持続性に危機をもたらすことは、福島の経験が明らかにしたはずだ。持続のためには平和が必要であり、軍事力にたよらない世界をつくる構想力こそが、平和の持続にとって必要なはずだ。
環境が破壊されたら、持続的な社会はつくれない。子育てが大変な社会が、持続的であるはずがない。結びつきのない社会が、持続的なのだろうか。強い社会や国をつくっていきたいなら、持続を基準にして、これからのあり方を考えていくことが必要なのである。
今の日本は、むしろ弱い社会や弱い国家をつくる方向で動いているのではないだろうか。アベノミクスもそうなのだが、いっときの強い経済をつくろうとして、持続性のない社会をつくりだしてしまっている。強い軍事力に依存しようとして、持続的な平和を考える構想力を喪失させている。にもかかわらずこのような政治がまかり通るのは、明治以降の路線があたかも強い国家への道であったかのごとくとらえられているからであろう。戦前の日本は、持続性のない弱い国家をつくったのだということを、私たちは認識しておかなければならない。
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私たちが暮らす日本は、軍事増強国家・相互監視社会という過去への逆戻りを始めています。
しかしそれは、内山節氏が指摘するように破たんした弱い国だったということを忘れてはいけないと思います。「強い農業」も、言葉と裏腹にちょっとしたきっかけで破たんする可能性がある脆い農業であって、「持続性のある農業」こそが本当の意味で強い農業なのだと私は考えています。